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【朗読】38)『アミ3度めの約束』第1章 待ちぼうけ①

エンリケ・バリオス著の『アミ3度めの約束』の朗読と個人的な感想です。





【文字起こし】

(漢字表記も含め全て原文のままです)


『アミ3度めの約束 愛はすべてをこえて』


まえがき


 異邦人と恋に落ちたことがあるひとで、異なる文化、異なる人種どうしでむずかしいと感じているひとがいるなら、このひとたちを見てください。このふたりはちがう惑星に生まれたのです。はたして愛で、すべての距離をちぢめ、すべての境界をなくし、ともに生きることができるのでしょうか?……奇跡はつねに起きるとはかぎりません。常識識もまたときには必要なことなのです。おろかにも奇跡を信じようとするこのばかげた恋人たちは、はたしてどうなるのでしょうか。


ブエノスアイレス、2000年の春のはじめの日    エンリケ・バリオス




第1部

第1章 待ちぼうけ ①


 信じられないことだった。

 ついにアミの円盤が、星のまたたいた夜空に、あの海岸の岩の上の夜空に、あらわれたのだ。

 ぼくの心は、また、幸せな気持ちでいっぱいになった。

 どんなに長いこと、この瞬間を待っていたことだろう。でも、これでまた、なにもかもまえとおなじになるんだ。

 黄色い光線がきらめき、ぼくをつつみこんだ。

 ぼくはその光に身をまかせたまま、宇宙船の入口の小さなへやまでひきあげられた。

 頭には彼女のことしかなかった。

 ビンカ。

 そう、ぼくの宇宙の恋人。

 そしてぼくの双子の魂……。

 あの悲しい別れのあとのまちにまった再会がもくぜんなのだ。

 ぼくのハートはよろこびに高鳴っていた。


 「ようこそ船内へ」

 と、見たこともない、風変わりな少年が、ほほえみながらあらわれて、ぼくを出むかえた。

 とてもきみょうな感じがした。

 だってぼくは、アミかビンカに会えるとばかり思って、それを期待していたんだから。

 「ざんねんだけど、きょう、アミはこられない。でも、まあ、中に入って、さあ、ペドゥリート」

 ぼくよりもずっと背の高い、ほっそりとした男の子で、ビンカとおなじバラ色のかみ、むらさき色のひとみで、耳の先っぽがとがっていた。

 あきらかに彼女とおなじ人種・スワマだとわかった。

 「ビンカはどこ?」

 そうじゅう室に入るまえに、彼に聞いてみた。

 「ああ、ここにいるよ。さあ、こっちだ」

  ぼくは安堵のため息をついて、幸せな気持ちで中に入った。奥のほうには、あの魅惑的なひとみをしたビンカがいた。とてもかがやいて見えた。

 いとしさで胸がいっぱいになり、ぼくの笑顔からは火花がとびちったようだった。でも彼女ときたら、ぼくを好意的な目で見るかわりに、冷たい視線を投げかけた。

 立ちあがってこっちにかけてくるようすも見せなければ、再会のよろこびの表情を浮かべるわけでもなく、ただ遠くから冷めた顔でぼくを見ただけだった。あいさつすらしようとしない!

 なんだか不安になってきた。

 少年がビンカのほうへ歩みよると、ビンカはその蜜のような笑顔を、ぼくにではなく(!!)、彼のほうにむけたのだ。

 そして少年はビンカに近より、ぼくの永遠のパートナーのかたの上に手をおくと、勝ちほこったような視線で、ぼくを見下ろした。

 「まちがいがあってねえ。ちがった世界の者どうしで双子の魂っていうのはありえないことなんだよ。ぼくたちはふたりともキア星の人間。でも、きみは地球人だ。だから、彼女はほんとうはぼくの双子の魂なんだよ、きみのじゃなくてね」

 少年は、そう言うと、ビンカに永遠につづくかのような長いキッスをした。彼女は彼のくびすじをやさしくなで、そして、はげしく彼の背中につめを立てた……。

 

 ぼくはほとんど、胸の中がひきさかれる思いだった。

 泣きたくなった。

 でもからだが金縛りにあったようで、どうすることもできなかった。

 ビンカはぼくを捨てて、別の男の子を選んだんだ。

 ぼくのような十二歳にも満たない赤んぼうじゃなくて、この年ごろの女の子なら、だれでもたいてい好きな十七、八歳くらいの、もっとおとなの子を……。


 そのとき、大きな音が聞こえた。

 「ペドゥリート!」

 ハートにとてもつよい痛みを感じたまま、目を開けた。

 ぼくは海岸の家の自分のへやにいた。

 “ああー、また、いつもの悪夢だったのか……


 ぼくは起こしてくれたおばあちゃんに、心の中でかんしゃしながらつぶやいた。だんだん気持ちも落ちついてきた。

 「ペドゥリート、もう起きる時間だよ。あたしゃこれからヨガの教室へ行ってくるよ。だれかが起きて家にいなくっちゃならないからね」

 「あ~、わかったよ。おばあちゃん、もう起きるよ」

 「それからペドゥリート、あたしゃ十二時ごろひとに会わなくちゃならないから、お昼は少しおそくなるよ。十二時になったら、オーブンのスイッチを入れておいてね。ジャガイモのケーキが入っているから。あとは、帰ってきたら、あたしがみんなするから、いいね」

 「わかったよ、おばあちゃん。心配しないで」

 「じゃ、たのんだよ、ペドゥリート。気をつけてね」


 そう、あのころのぼくは、いつも悲しい気分で、いらいらしていた。

 アミやビンカからなんの音沙汰もないまま、ただ時間だけがすぎていくにつれて、しょっちゅうこういうこわい夢を見るようになった。でも、さいわいなことに、悪夢ではあってもそれはたんなる夢でしかなかった……。

 ぼくのおばあちゃんは、どうしたことかとつぜん、“若返りの発作”におそわれて、ヨガをはじめ、ビタミン剤を飲み、年よりも若い服を着て、美容師だか化粧師だか脱毛師だかよくわからないけど、そんな感じのむかしの仕事を再開していた。

 そんなわけで、いまは家にいる時間が少なくなり、温泉場に行くだけでなく、仕事で戸別訪問もしていた。

 そのおかげでお金にも余裕ができて、夏のあいだじゅうこうしてずっと海辺の家を借りられるようになった。

 ここに着いたとき、アミはすぐにでもぼくに会いにきてくれるものかと思っていた。でも、ぼくは二カ月のあいだ、以前、彼と会ったあの海岸の岩の上で、むなしく彼を待ちつづけなければならなかった。もう、夏休みも終わろうとしている。もうじき都会にもどらなければならない。でも、いまだに、アミからまったくなんの連絡もない……。

 この悲しい待ちぼうけのせいで、ぼくの夏休みはなにかとても暗い、気持ちのやり場のないものになっていった。

 毎日、アミの円盤が見たい一心で、何時間も何時間も暗くなるまで空を見つづけた。

 空にちょっとでも光が見えれば、希望に胸をときめかせた。でも悲しいことに、それは人工衛星だったり、ただの隕石だったり、たんなる飛行機にすぎなかったりで、どれもあのアミの円盤――ビンカに会うためのたったひとつのたのみの綱――じゃなかった。

 どんなに彼女に会いたいことか……ぼくの心の奥に、ビンカはこんなにも深く入りこんでいる。じっさいにビンカといっしょにいたのは、何カ月もまえの、ほんの一日足らずのことだ。でも、ぼくたちは出会ったときから、永遠に結ばれているかのように感じられた。ぼくたちはおたがいに、いっときでもはなれているのがつらいと思うほどひきつけられていた。

 そして数時間後には、ぼくたちのふたつの魂はおなじひとつの存在の片割れれどうし――つまり、双子の魂だということがわかった。だからこそ、その別れは身を切られるようにつらかった。彼女だっておなじだったと思う。

 ぼくは彼女のことを、毎日毎日思い出していた。はじめて見たときから、ずっと彼女のことを考えていた。いつも彼女の存在を、ぼくの中に感じていた。そしてあるとき、それは永遠につづいていくものだということに気がついた。それはとってもすてきなことだった。

 たとえ彼女がぼくのそばにいなくても、ぼくは彼女のことを考えることで、より元気に、よりかんぺきに、そしてより幸せに感じることができた。

 とうぜんだよ。だってぼくたちは、愛によって結びついているんだもの。そしてアミのおかげで、愛こそがすべてで宇宙のもっとも大きな力であることがわかったんだから。

 こうして、愛はたんに美しい感情ではなく、もっとずっとそれ以上のものであるということが理解できた。

 アミに出会ってから、ぼくには新しい神が存在するようになった。たぶん、神を信じないひとたちだって、宇宙の創造者にかんしてのぼくの新しい見方には賛成してくれると思う。だってそれは、宇宙の進んだ世界のものとおなじだし、そこから受け取ったものなんだから。 

 神はいままでも、そしてこれからもおなじだっていうことをぼくは知っている。でも、ぼくたち人類の神に対する見方は、時とともに、ぼくたちの進化とともに変化していったんだ。

 さいしょのころ、人々は岩とか、かみなりとか、太陽とかを創造者と思いこんでいた。その後、かならずしもそうでないということを学んでいった。そしてより高いかたちで神を理解していくたびに、それがぼくたちにとって、新しい神に変わったように感じられる。まさにそれとおなじことが、ぼくの中で起こっていたんだ。

 アミと知り合うまえ、ぼくが想像していた神とは、いつもぼくたちを見はったり、こらしめたりする、きびしくて復讐心のつよい、おこりっぽい神だった。

 それはあるひとたちが、ぼくをこわがらせるために教えこんだイメージだった。じっさい、それに似たようなことも聖書のある部分には書かれている。そのせいで、子どものころ、ぼくは神がとてもこわかった。

 だから、少し大きくなって、神のことを考えさえしなければ、こわいイメージの悪い波長に巻きこまれずにすむということがわかって、神の存在をうたがったほうがよいと思ったりもした……。

 でも、いま、ぼくにとって神は、宇宙をそうさする、善良で光りかがやいた“知的な存在”となったんだ。その“愛の神”は、遠い星から円盤に乗ってぼくに会いにきたアミが教えてくれたものだった。

 たしかにいまは、ぼくは神にとても関心をもっている。だって、それはもう想像するだけのものじゃなくて、ぼく自身で体験できる、身をもって感じられるなにかに変わったからなんだ。愛が神だから、愛を感じるたびに神を体験しているんだ。とても単純なことだけど、それを頭のかたい、マジメなひとが話すと、むずかしい神学の言葉を使ってすべてをややこしくしてしまい、けっきょくのところは、ぼくたちをほんとうの神から遠ざけてしまう。

 ぼくたちの惑星の住人たちの内面は、半分ゆがんでいる。だから、こんな単純なことが理解しにくいんだよ。それとおなじことが、この世界の取りあつかいについても言えるんだ。

 ぼくは惑星オフィルをはじめとする進んだ世界へ行った。

 そうやって、宇宙の進んだところでは、ちょうど惑星間大家族のように、愛をもってすべてを分かち合っていることを知った。とても単純。そして結果として、毎日お祭りみたいに楽しんでいるように見えた。だって、みんなよろこんで幸せそうに歩いていたんだもの。 

 でも地球では、通りに出て人々の表情を見ると、うれしそうな顔をしたひとは百人のうちせいぜいひとりぐらい、あとはみんな、不きげんそうな顔をして歩いている……。

 そして大部分の人が、自分たちの問題はお金さえあれば解決できると思っている。でも、豊かなところに住んでいるひとたちほどもっと不きげんな、石のようにかたい、しかめっつらをしている……。

 つまり、物質的なものとは、たんに“外側の部分”にすぎないけれど、幸せとは“内側の部分”と密接に関連していて、同時に愛ともかかわっていることなんだ。

 愛、それはまさにぼくたちよりも進んだ世界の根本指針でもあるんだ。だから、あの世界では人生を“わたしたちみんな”という立場からとらえているのに対して、地球ではただ、“自分”だけが重要なことなんだ。

 ざんねんながら利己主義は、ほくたちのもっとも自然なふるまいだ。ぼくたちの生活スタイルはすべてそこから生みだされている。“競争”といういっけん上品な言葉であらわされてはいるけれども、これはたんに先史時代的な“密林の法"でしかないんだ。この有名な“競争力”という“文明”のモーターにぼくたちの生活スタイルは動かされているというわけなんだ……。

 でも、宇宙の文明世界は、もうとっくに先史時代を卒業している。そこでは共有はあるけど、競争はない。

 そのために、そしてそのほかの理由もふくめて、宇宙の文明世界は、ぼくたち人類をまだ文明化した、進化したものとはみなしていない。彼らにとって、ぼくたちはどっちかというと、一種の原始人のようなものだけれど、ぼくたちは自分たちのことを、いつも、“現代人”だと考えている。きっと十三世紀のひとたちだって、そうだったろうし、いつどの時代のひとたちだっておなじように考えていただろうけれどね……。

 近ごろ、ぼくの住んでいる地球じゃとても追いつけない(と思う)ようなすごい技術をもったあの宇宙船が、よく目撃されるようになってるみたいだけど、搭乗員たちは、ぼくたちと正式なかたちでコンタクトをとるつもりなんてからきしない。でもぼくたちには、それがちっともわかってないんだ。

 考えてもごらんよ。たとえば、地球の先進国の大学の教授たちだって、いくら調査のためだとはいっても、好きこのんで密林の奥深くに住んでいる未開人と直接に接触しようとはしないだろう。なぜだろう?教授たちを彼らのところへ送りこめって?でもそんなことしたら、きっと毒のついた槍で、くし刺しにされてしまう……。それより、彼らの手のとどくところに、教えたいことのABCを書いたわかりやすいイラスト入りの本でもおいてくるほうが、ずっといいとは思わないだろうか。

 別の例をだしてみよう。

 もし、きみがとても危険な犯罪者をたずねたとしよう。きっとその犯罪者は、きみが自分を支持しているものだと考える……でも、もしきみが「あなたの行為はまちがっています」などと伝えたいのだとしたら、防弾チョッキはけっして忘れないようにしないと……それだってものの役には立たないかもしれない。だって犯罪者は、自分のすることをきちんと心得ているだろうからね。だからこのばあいも、犯罪者の近くに本をおいておくほうがずっといいだろう(でも、抗争とか弾傷だとか危険にかんすること、それにたくさんの憎悪、苦悩、悲しみといった言葉を、本にたくさん盛りこむことをけっして忘れないように。そうでないとたいくつして、本を遠くに投げとばしてしまうからね)。

 アミはすべての人に対して、たとえこのうすぐらい未開世界の先史時代に生きていて、まだ愛を尊重することもその重要さもわからないようなひとたちにでも、あるいは自分の知識を新兵器の開発のために悪用しているような秘学者や、へいぜんと自然を破壊しながら商売しているようなひとたちに対してさえも、明るくよい波長をもって生きるようにと、そう言ったのだ(アミはこんな野蛮なひとたちを愛することをとてもやさしいことと思っている)。

 アミが言うには、彼ら“人類の慈善者たち”は(少なくとも彼らはそう思っているだろう……でも、ぼくだったらぜったい、彼らを刑務所に入れて、これ以上害を流させないようにするけれど)悪人というわけではなく、たんに無知なだけなんだという。だから、その解決法は、彼らと争うのでも、刑務所へほうりこむのでもなく(ほんとうのところ、ぼくにはとてもざんねんだけれど)まず教えてあげること、頭や心を入れ替える手だすけをしてあげることだという。少なくとも、これから変われる可能性の高い若い人たちにはとくにそうしてあげる必要があるというのだ……(いま気がついたけど、スペイン語のADULTO (おとな)とADULTERAR(偽造する、姦通する)はおなじ語源から派生している)。

 でも、いつかぼくたちはもっとちがった、ずっと人間的な世界に、ほんとうにすることができるのだろうかと考えてしまう。

 確かじゃないと思う。だって、学校では、よりよい人間になるようにとは教えてくれない。

 ぼくたちの教育は“内側の部分”ではなくて、“外側のもの”ばかりに指導がむけられていて、そのためにすることといったら、ほとんど、資料を暗記することばかり。それも幸福になるためとか、人生の高い意義を理解するための資料というわけでもない。そんな資料ばかりで頭をいっぱいにしたところで、深い意味のことはまったくわからないし、内側では、なにも変わらない。ましてなんの進歩もない。

 そして、ぼくたちを連帯感のあるひとになるようにうながすかわりに、すごく“競争心”のあるひとになるようにとかりたてる。それはつまり、すべてにおいて、ひとを踏みつけ、押しつぶしてでも、とにかく勝たなきゃいけないってことだし、のしあがっていかなきゃ意味がないってこと。ぼくたちは現在、こういう哲学、道徳、そして倫理でもって教育されている。

 たしかに外見は以前よりもずっとよくなった。みんなきれいな服を着て、思い思いの髪形で、高価なブランド品を身につけて、携帯電話をもっておしゃべりに夢中になって歩いている……でも、ぼくたちの内部は???……ほとんどなにも変わっていない!

 こういった現状をまえにして、ぼくはときどき思ってしまう。たぶん、ぼくたちの世代もおとなになったからって特別にちがったことはしないだろうと……でも、いつかきっと別の世代が?……。



 

【感想】

 これは本当に1986年に書かれたものなのだろうか?約40年後である2025年に読んでも全く違和感がありません。残念なことにそれだけ、大した進歩は出来ていないのだと思います。


 このあたりは、前巻の『もどってきたアミ』で学んだ内容が、まるで復習のようにわかりやすく記されていて、とてもよいリマインドになっていると思います。もう「愛=神」ということは周知の事実であるかのように書かれています。たった今、これを読んでくださっているあなたにとっても「事実」であろうことを嬉しく思います!

 

 ペドゥリートは少しの自虐も込めて、地球人がいかに「未開」であるかということを語っています。最初の巻の「アミ小さな宇宙人」であんなに激怒していたペドゥリートが懐かしく、可愛らしく思い出されます。自分も含めて、成長したなぁ、、なんて思ったりもします。


 こんなふうに「内側の部分」に向き合っていくことを知ることが出来て、本当に幸せだな!と思いますし、その仲間がいてくれることが本当に有り難いですね!

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